Up Cycle Circular’s diary

未来はすべて次なる世代のためにある

捻じ曲った真実という現実は歪んだメディア報道から生まれる

 

 「メディア報道が自粛に影響、7割」と共同通信が伝える。

 このコロナで色々と意見が分かれることが増えてはいないだろうか。ニュースを読んで、そんなことを感じた。

this.kiji.is

 おそらく大多数の人が早期収束を願っているのだろう。それを実現させる方法には必ず賛否両論が生まれる。

 何が「正しいこと」なのだろうか。

 もしかしたら、正解などないのかもしれない.....

 情報が増えれば、それだけ惑いも生じる。流される情報に濃淡はあっても、言うことが同じであればいいのだが、なかなかそうはいかない。

 

 

 矜持

 新規陽性者数の傾向がダウントレンドになり、緊急事態宣言の解除にむけ良い方向に向かっているのかと思うと安堵する。さらにワクチン接種が始まればと思ったりするが、ワクチン報道がまた物議を醸し出しているようだ。

 元毎日新聞の社会部記者だった佐々木氏は「マスコミが反ワクチン報道になった理由~歪んだ社会正義の問題」という。

さすがに今回は世論の反発に抗しきれずに、皆さん撤退しつつあるという状況です。 (出所:ニッポン放送NEWS ONLINE)

 反ワクチン報道した報道各社が記事を削除したり、題名を変えたりしているという。

 

news.1242.com 

 

 ワクチンまでが政府批判のネタになり報道されていく。メディアの矜持とは何なのだろうか。

副反応の問題もそうなのですが、少しでも被害が出ていれば、それは追及しやすいのです。今回のコロナも同じです。

すぐ「後手後手だ。政府は何をやっているのだ」と言うのですが、後手後手になるのは当たり前です。先手を打ったら皆さん褒めるのかと。

(中略)

結局先手を打てないし、リアルタイムでジャストな政策を打てるはずがないのだから、すべて後手後手になる。それを「後手後手だ」と言っておけば、何となく「言った気になってしまう」というのがメディアの問題です。

批判しやすいところをどんどん批判しようとすると、すぐに副反応などという方向に行ってしまうところが問題なのではないかと思います。これはかなり根深いですよ。(出所:ニッポン放送NEWS ONLINE) 

 佐々木氏が指摘する「歪んだ社会正義」という言葉が気になる。「公平」「公正」さが欠けているということであろうか。

 

 

 ねずみ小僧の正義

 大名屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達に金品を施したねずみ小僧の「義」は正しいものなのであろうか。

 社会正義ほど胡散臭いものはないのかもしれない。十人十色、人それぞれで考えは違い、人の数ほど正義も存在するのではなかろうか。結局、対立する原因はそこにあるのかもしれない。正義とは危なっかしいものなのだろう。

 

現実と哲学

 日本の哲学者三木清は、「哲学入門」の冒頭「序」にこんな行があり、そして序論で「現実」が哲学の出発点といい、哲学における「現実」について語る。

 すべての学は真理に対する愛に発し、真理に基く勇気を喚よび起すものでなければならない。本書を通じて私が特に明かにしようとしたのは真理の行為的意味である。哲学は究極のものに関心するといっても、つねにただ究極のものが問題であるのではない。我々が日々に接触する現実を正しく見ることを教え得ないならば、いかに深遠に見える哲学もすべて空語に等しい。 (引用:哲学入門 三木清) 

www.aozora.gr.jp

 

  このコロナで、何が「正しい」ことなのだろうとついつい考えてしまう。「正しい」ことを知ろうとすれば、常に「現実」に向き合わなければならない。

「現実」とは、そこにあるありのままの「事象」ということなのかもしれない。

 

 

 その「現実」を、ニュースメディアは言葉を使って「事実」として報道し、その事実が個人の中で咀嚼され「真実」が生まれるのかもしれない。

 裁判は、ある現実を、証拠をもとに検事や弁護士、裁判官の共同作業で事実立証され、真実が生まれる。しかし、冤罪は発生する。真実は解き明かすことができないものなのかもしれない。真実は個人の中にだけ内在する。

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東京オリンピック

 東京オリンピックに関するニュースも増える。開催するのか、それとも中止にするのか、その結論には興味はあるけれども、なるようにしかならないのだろう。まだ先のこと、深く考えていないというところであろうか。感染状況次第、いつ判断するのだろうくらいにしか見ていない。

 ニュースを眺めていたら、10000m走の代表に内定した新谷選手がインタービューに答えていた。

新谷選手はことしの東京大会開催に対する「逆風」とも言える厳しい世論を強く感じていて、NHKのインタビューに対して「アスリートとしてはやりたい。人としてはやりたくないです。

アスリートとしては賛成だけど一国民としては反対という気持ちです」と語りました。 (出所:NHK

www3.nhk.or.jp

 

 アスリートも微妙な立ち位置にいるのだなと感じる。

国民の1人として反対という理由については「命というものは正直、オリンピックよりも大事なものだと思う」と話しました。

新谷選手は「走るのは仕事」と常々語る高い“プロ意識”を持ち応援してくれる国民がいてこそ競技が続けられると考えていて、国民に不安が広がる現状での開催については慎重な姿勢を貫いています。 (出所:NHK

  人の数だけ意見はあるのだろう。それらも、新谷さんの意見も、どれもこれも「現実」なのだろう。

 

 

 新谷さんの言葉を聞いて三木の言葉を思い出した。

 「我々は単に自己自身によって自己を作るのではない、我々は環境から作られるのである。その環境はしかし逆に我々の作るものであり、我々は環境を形成してゆくことによって我々自身を形成してゆくのである」 (引用:哲学入門 三木清) 

 

 危なっかしい「社会正義」の上に位置する「概念」が必要になっているのだろう。 

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 東京の新規陽性者数が1000人を切ったという。もうひと踏ん張りというところであろうか。

 このコロナが蔓延する今、メディアは何を伝えるべきなのだろうか。