Up Cycle Circular’s diary

未来はすべて次なる世代のためにある

【小さな正義と大きな正義】誰も解決できないコロナ渦、混迷、混沌とするコロナ対策

 

 国の借金が膨れ上がり1216兆円に達したという。三度にわたり編成された新型コロナ対策の補正予算の影響があるという。

www.jiji.com

 それに反して、累計の新規感染者は増え続け、優に60万人を超えた。そんな単純なことではないであろうが、質素倹約に徹すれば、よかったのではないかと言いたくなるくらいの結果なのだろう。

 当然のように内閣支持率は下落する。それでも、野党は内閣不信任決議を提出できないという。首相が口にした「大義」が理由のようだ。不謹慎だが、滑稽と感じるばかりである。

 

 

 全国知事会では、緊急事態宣言を全国に拡大し、都道府県境を越えた人の移動を抑えるなど、より強い対策に踏み込むべきだとの意見が相次いだという。

this.kiji.is

 一方で、ワクチン接種が遅いといわれているという。

日本国内に到着した新型コロナウイルスワクチンは2800万回分に達したが、接種が完了したのは15%程度の400万回超で、約2400万回分が「(接種を担当する)人手や手配上のボトルネック」によって使われないまま残っており、接種ペースは「遅いままだ」などと批判的に報じた。 (出所:毎日新聞) 

mainichi.jp

 毎日新聞によれば、河野担当相は7日の記者会見で「できるだけクレームはお控えいただければと思う」と話したという。

 接種が進む自治体がある一方で、遅々として進まない自治体もあるようだ。

 感染対策を進める政府に協力する方が合理性があるように思うが、なかなかそうならないから混迷し、混沌とするのだろう。

 

 

この時期におけるオリンピック開催可否の議論の合理的判断はどこにあるのだろうか。

 小さな正義と大きな正義

 昭和恐慌のきっかけは枢密院が台湾銀行への公的資金投入を拒否したことであった。放漫経営の台湾銀行へ国民の血税を投じることを阻止することは小さな正義に適う。だが、それが結局、日本全体を恐慌に導く引き金を引いたことを考えると、小さな局面で小さな正義を通したからといって、大きな正義に合うかどうかは一概に言えない。 (引用:中坊公平の闘い 藤井良広) 

 7月末に感染は収束しないとの仮説を信じれば、それは合理的な判断なのだろうが、その仮説は正しいのだろうか。その予見を信じてしまえば、現状をよくしていこうということよりは、感染は収まらないとの諦めが先行したりしないだろうか。

 Wikipedia社会学の合理的選択理論の中に、こんな説明がある。

個人の予言が集積すると、実現してしまうことがある(予言の自己成就)。

例えば、仮に冗談で、ある銀行がつぶれるらしいと言い、その情報を多くが信じて一斉に預金を引き落とすと、取り付け騒ぎとなり銀行が倒産することがある。 (出所:Wikipedia

 五輪に反対すればするほど、感染収束が遠退いていくように感じたりする。

 

 

 コロナに効くか「行動経済学」との記事を日本経済新聞が出す。

www.nikkei.com

「大多数の人びとは外出を控えている」とのメッセージやこれを裏付ける情報を積極的に発信する一方で、規制に従わない事例を不要に目立たせないことが大事だという。(中略)

たとえば不要不急の外出をする人びとに対して当局や専門家が否定的にコメントするといった手はある。望ましくない行為に「負の烙印(らくいん)」を押し、やんわりと制裁を与えることで、ルールの順守を促すわけだ。 (出所:日本経済新聞

 これと真逆の報道が多くないだろうか。「判官びいき」と言っていいのかもしれないが、冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せるような報道をする。それをジャーナリズムというのだろうか。

 政府を擁護する気はさらさらない。今ある苦境の根本は新型コロナウイルス感染症であって、政府そのものではなかろう。政策の良し悪しの批判はあってもいいのだろうが、専門家でもない、知識人どもが利に放りて発言していては混迷を増すばかりだ。そこに合理性はあるのだろうか。そんな議論をよそに感染症は今もまた人から人へ感染しているのだろう。今、感染症を収束させようとしているのは一体誰なのだろうか。