「サステナブル」、人それぞれでその定義が異なっているのだろう。意見が多様であった方が、色々新しいものが生まれるチャンスがあっていいのかもしれない。
エネルギー効率を最大化して、使用する天然資源の削減につながればと考えたのがサステナブルを考える原点だった。そこに必要な要素を考え、課題と解決すべき事項をまとめ、技術開発を考える。テーマを大きくし過ぎると、考えることが増えるが、夢想していても結構楽しいものである。
建築家の隈研吾氏が「スーパーシティ構想」における自己の役割を、「社会は、都市はどうなるのか、という大きな哲学をしっかりと示すこと」と語る。
20世紀のコンクリートと鉄による集中化というベクトルから、大地に戻す分散化のベクトルへと転換する。そのためにどういう技術が必要なのか、どういう素材開発が必要なのか。そういった技術のディレクションが僕の役割です。 (出所:日経ビジネス)
その隈氏は、「スーパーシティというと、どうしてもテクノロジーやDX(デジタルトランスフォーメーション)が過剰に評価されているところがありますが、DXによってヒューマンに戻ることが重要だ」という。
そして、ヒントは江戸の街づくりにあるという。「江戸の人は自然を絶えず感じながら生きていた.....」
20世紀の都市は、基本的にコンクリートと自動車で成り立ってきました。コンクリートでビルを高層化できるようになり、自動車で巨大な流通をさばけるようになった。それで巨大都市が出現し、地球環境が破壊されたと僕は思っている。
それをどういうふうに救うか、コンクリートと自動車からどうやって都市を解放するか、というのがスーパーシティの一番の役割であり、テーマだと思っています。 (出所:日経ビジネス)
隈氏も指摘するウォーカブル(Walkable)な街、「都市への車の流入制限」が実現すればいいのかもしれない。
都市中心部へのクルマの進入を遮断すれば、その内部では自動運転でバスやタクシーを走らすことができるようになるのかもしれない。ごく短い距離、ラストワンマイルであれば、シェアリングで利用できるキックボードなどのモビリティの活用があってもよさそうだ。
そんな街が出来上がったときに、街に残る機能は何であろうか。商店やレストランなのだろうか、それともオフィスなのだろうか。それによってエネルギー需給も変わる。エネルギー自給ができる街が理想なのだろう。ビル壁面を利用した太陽光発電、都市の小さな水流を利用したマイクロ水力発電、ロスなく送電できる送電配電網、そのためのデータ利用とデジタル技術などなど。
大胆に決断し、時間がかかるかもしれないが、諸々を整備していけばサステナブルな街ができあがるのかもしれない。隈氏の話を読むと、そんなことを思い出す。
ウォーカブルな都市においては、日本が昔、圧倒的にリードしていたわけです。日本人はそういう自分たちの昔の姿を、もう1回見つめ直したほうがいいと思いますね。(出所:日経ビジネス)
そんな街が衛星都市のようになって点在し、それぞれにつながりを持てれば、サステナブルな社会に近づいていかないだろうか。
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「小型核融合炉」、自民党の総裁選で推奨する人がいるようだ。既存の原子炉に比べれば、安全性が高いといわれるが、放射性廃棄物の発生は避けられないようだ。技術開発までを否定する気はないが、今、求められる技術のだろうか。そんなものをどこに設置しようとするのだろうか。近くにあれば、あまり心が落ち着きそうにない。
サステナブルな社会は技術開発だけで達成できることは断じてない。人々が不安なく、安心して暮らすことできて初めて成立するものなのだ。
放射能の危険性とコントロールの困難さを学んだ国には、取るべき行動があるのではないだろうか。