日本のコンビニ文化をゼロから創り上げた鈴木敏文氏が亡くなられました。享年93歳。「永遠の探求者」と呼ばれた鈴木氏。現状維持を最大の悪と捉え、変化を恐れずに挑戦し続けた人物でした。2016年、鈴木氏のセブン&アイの退任によって、日本の小売業が「人間の感性や心理」で統治される時代は事実上の終わりを告げました。カリスマの理想であったオムニチャネル(ネットとリアルの融合)が解体された後、セブン&アイ、そして日本の小売業界が進めたのは、資本の論理による徹底的な「選択と集中」でした。
資本の論理、そごう・西武の迷走
鈴木氏という絶対的な重しを失った後のグループに、外部の投資ファンドなどが求めたのは、極めてシンプルな最適化でした。「足を引っ張る不採算部門を切り離し、最も数字(利益)が取れるコンビニ事業だけに集中せよ」――。
鈴木氏がグループに抱え込み、オムニチャネルの核にしようとしていた「そごう・西武」は、この方針のもとで米国の投資ファンド(フォートレス・インベストメント・グループ)へと売却されることになります。
セブン&アイ、そごう・西武売却 実質譲渡額は8500万円 - 日本経済新聞
その後の「そごう・西武」を巡る動きは、まさに混迷を極めています。 池袋本店におけるヨドバシカメラの出店を巡る激しい摩擦や、時代のカルチャー発信地としての役割を急速に縮小せざるを得ない渋谷西武の現状。メディアはこれを「外資ファンドによる強引な再編劇」として報じますが、その裏で起きている本質は、単なる百貨店の業績不振ではありません。
それは、かつて堤清二氏が命を吹き込んだ「西武カルチャー(文化)」という、日本の戦後消費社会が到達した一つの精神的財産が、跡形もなく消え去ろうとしているという残酷な現実です。
「効率」という数字に圧殺された堤清二の「文化」
中内功氏のダイエーが戦後の「物(豊かさ)の不足」を満たしたのに対し、堤清二氏が率いたセゾングループ(西武百貨店、パルコ、ロフト、良品計画など)が追い求めたのは、「物質的に満たされた後、人間はどう生きるか」という切実な問いへの答えでした。
単に生きるためにモノを買うのではなく、自分の生き方や思想を表現するために買う。かつての池袋本店は、セゾン美術館や文芸書に強い書籍部門を擁し、世界中の現代アートや最先端の思想を日本に紹介する「文化の殿堂」でした。若者たちは西武やパルコのロゴが入った紙袋を持つことに誇りを感じ、そこには単なる売買を超えた「精神的な豊かさ」がありました。
しかし今、その池袋本店は、当初計画された「1〜4階の低層階すべてへの家電量販店出店」こそ見送られ、コスメやラグジュアリーが残ったものの、上層階や別エリアに家電量販店が展開する歪な構造へと変貌しています。
財務諸表(数字)だけを見れば、これは「大正解」の経営判断なのかもしれません。賃料収入は安定し、効率の悪い売り場は一掃され、資本の論理は見事に満たされます。しかし、売り場は富裕層ビジネス(ラグジュアリー)と、効率ビジネスの家電量販店に分断され、堤氏がかつて莫大なコストと情熱をかけて築き上げた「生活を豊かにするための文化の拠点」は、事実上の終わりを迎えたようです。
現代の小売業において、文化を発信するための「余裕(コスト)」や「無駄(余白)」は、もはや一切許されなくなってしまったのです。池袋や渋谷で起きている迷走は、私たちの社会が「感性」を失い、数字という冷徹なアルゴリズムによって街の景色が塗りつぶされていくプロセスの縮図にほかなりません。
鈴木敏文と堤清二時代の終焉
非常に興味深く、そして悲劇的なのは、同じ「西武」の血を引きながら、全く異なる手法で日本の消費社会を牽引した二人の天才の終着駅が、今まさに同時に壊されているということです。
堤清二氏は「人間は数字では測れない。感性で生きるものだ」として、ロマン主義的な小売り(文化)を作りました。 対する鈴木敏文氏は「データは過去。人間の心理を洞察して仮説を立てよ」として、科学的な小売り(仮説検証)を作りました。
アプローチは真逆だったのかもしれません。しかし、二人に共通していたのは、「データや財務諸表には写らない、生身の間の人間の心(主体的思想)」を何よりも信じ、商売の主役に据えていたという点です。経営としての効率性の追求は大前提でありながらも、彼らの視線は常に「人間」に向いていました。
しかし今、そごう・西武で起きているのは、百貨店という体裁を残しながらも中身を効率化していく、堤氏の「文化(感性)」の事実上の消去です。そして、セブン本体や、新興IT小売、ファンド傘下に入ったスーパーで起きているのは、鈴木氏の「仮説(人間による思考)」を排除し、AIに判断を丸投げする「過去のデータの自動処理(効率化)」です。
二人の巨星が遺した「人間を見つめる」という遺伝子は、数字のアルゴリズムによって、静かに過去のものへと追いやられようとしているようです。
まとめ
私たちは今、かつてないほど「安くて便利な社会」に生きています。スマートフォンを数回タップすれば、アルゴリズムによって導き出された「最適な商品」が、分単位で最適化された物流網に乗って自宅に届く。
しかしその便利さは、かつてカリスマたちが注ぎ込んだ「文化の豊かさ」や、現場の商売人が頭をひねって仮説を立てていた「自律的な労働の誇り」を削ぎ落とした効率性の上に成り立っているのではないでしょうか。
「効率性」とは、目的ではなく、人間が豊かに生きるための「手段」だったはずです。しかし、手段が目的にすり替わってしまった現代社会に対し、私たちはこのままただ流されるままでいいのでしょうか。私たちが「安さ」や「タイパ(効率)」だけを無条件に支持し続けるならば、私たちの街からは文化の余白が消え、働く現場でも誇りが失われ、社会は無機質な自動販売機のようになっていくのではないでしょうか。
鈴木敏文氏が遺した、あの未完のオムニチャネルという夢。 それは、デジタルという冷徹なシステムを使いこなしながらも、最後まで「人間の心」を主役に据えようとした、最後の抵抗だったのかもしれません。効率の濁流がすべてを飲み込もうとする現代だからこそ、彼らが遺した「人間への洞察」というOSを、私たちはこれからの時代を生きるための羅針盤として、大切に語り継いでいく必要がありそうです。
(連載完結)
「参考文書」
そごう・西武、売却進まぬ理由 セブン&アイは四面楚歌、半世紀ぶり百貨店ストも【けいざい百景】:時事ドットコム



