Up Cycle Circular’s diary

未来はすべて次なる世代のためにある

影を潜める良識、暴走する正義、東京アラート発令

 

 米国で起こっているデモの暴徒化もコロナ渦のひとつなのであろうか。惨劇といっていいのかもしれない。

 SNSで拡散された事件が発端で、あっという間にデモが全米各地に広がり、一部が暴徒化し略奪を行う。大統領が発したSNSでのメッセージに反発が起き、Twitter社は大統領のツィートが「暴力を賛美している」として非表示にしたという。

 ひとつの事件が、様々な問題を巻き込み、問題を複雑化させ、メディアは「分断」だと囃し立てる。

 

 日本経済新聞は、「トランプ流への不満とコロナ禍が増幅させる米国の分断が、世界が育んできた民主主義の基盤を危うくしかねない。全米規模の動乱の広がりは、そんな現実を映し出している」と執筆するワシントン支局長の言葉を報じる。

白人警察官による米ミネソタ州の黒人暴行死事件が引き金となった全米の抗議デモは、公民権運動の旗手、キング牧師の1968年の暗殺時以来の騒乱に発展した。

香港デモへの統制強化を進める中国への制裁を表明したトランプ米政権だが、自国のデモ鎮圧には武力行使も辞さない姿勢もみせる。

矛盾の背後にあるのは根深い人種対立と新型コロナウイルスが露呈させた社会の分断だ。

米国の動揺は、世界の民主主義が抱える厳しい試練を映し出している。 (出所:日本経済新聞

 

www.nikkei.com

  

 

 

 Facebook社員の一部が「バーチャルスト」を起こしたと日本経済新聞が報じる。

 CEOのマーク・ザッカーバーグ氏が、トランプ大統領に関連するアカウントの米国市民に対する暴力を賛美するかのような投稿を、Facebookが削除もしなかったことが背景にあるようだ。

 

www.nikkei.com

 

 TechCrunchによると、ザッカーバーグ氏はFacebookの立場を擁護し、大統領の投稿に対して行動を起こすつもりはない、なぜなら「国民は、政府が暴力を行使するつもりなのかを知る必要があるとわれわれは考えるからだ」と語ったという。

Twitterは大統領の一連のツイートに「要事実確認」の警告を表示し、暴力ポリシーに違反したとして28日のツイートを警告ラベルで隠した。

「我々は触発された者が暴力行為を犯すのを防ぐために行動を起こしたが、ツイートをTwitter上に残したのは、公共的に重要な現在進行中の出来事との関係を踏まえ、市民がツイートを見られるようにすることは大切だからだ」とTwitterが声明で語った。(出所:TechCrunch)

 

jp.techcrunch.com

 

 暴徒化したデモは「国の秩序」を壊していないのだろうか。秩序を取り戻すことは「正義」でないのであろうか。

 「正義」だけでは解決できないような気がする。

 「良識」ある判断が求められているのかもしれない。

 

 良識は、コトバンクによれば、「物事を正しく判断する能力。時として理性と同一視される」という。

「正しく判断し、真なるものを偽なるものから区別する能力は、本来良識あるいは理性とよばれるものであるが、これは生まれつきすべての人に相等しい」(デカルト方法序説』)。

しかし、パスカルのいう幾何学的精神と繊細の精神との区別を念頭に置くなら、理性が科学的、客観的認識に関係づけられるのに対して、良識は科学的には論証されない日常の具体的な諸問題を冷静かつ公平に判断する能力をさすように思われる。

この意味で科学的理性が少数の専門家の所有物であるとするなら、良識はむしろすべての人に開かれている。しかし良識に到達するには、よい精神をもつというだけでは十分ではない。たいせつなことは「精神をよく用いること」(同前)である。

 他方、常識を一定の社会や集団においてのみ通用する一般的知識として理解するなら、良識は常識を凌駕する

「祖国防衛」はあらゆる民族の常識であるが、「核兵器廃絶」は全人類の悲願であるという意味で、実に良識とよぶにふさわしいからである。(出所:コトバンク

 

 コトバンクの言葉を借りれば、「国の秩序」は国民の常識であり、「人種差別根絶」は良識ということなのかもしれない。

 

暴走する常識的な「正義」を、人間がもつ普遍的な「良識」で、止めることがきていないということなのかもしれない。

 

jp.reuters.com

 

 

 

 アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンは、他人に聞く耳を持ってもらう秘訣のひとつは、議論を避けて相手の意見を受け入れることだといっていた。

 こうしたスキルが、フランクリンをアメリカ建国の父に導き、偉大な政治家にさせたのだろうか。自叙伝には、こんな記載がある。

私は自らにルールを課した。他者の意見を直接否定することと、自分の意見を積極的に肯定することを、完全に禁止したのだ。

さらに私は、「確実に」や「疑いなく」など、意見の固定化を招く言語表現の使用も全面的に禁止し、「~であると理解される」や「~であると想像される」や「現時点では~であるように見える」という表現で代用し始めた。

間違っていると思われる意見を誰かが主張したときも、私は直ちに相手を論破する快感を我慢し、即座に相手の愚かさを指摘する愉悦を我慢し、次のような答えを返すようにした。君の意見が正しい場合や状況もあるだろうが、今回のケースはそういう場合でも状況でもないように思える、と。

こうした態度の変化が利益をもたらしてくれることに、私はすぐさま気づいた。

相手が誰であろうと、話し合いが快適に進むようになったのだ。私が意見の主張を控え目にすると、相手の反発は弱まり、意見はより受け入れられやすくなった

そして、私自身が間違いを指摘された場合も、以前ほどの屈辱を感じなくて済むようになった。たまたま私の意見が正しかった場合も、相手に反論を撤回させて賛成に回らせることが容易くなったのである。(出所:バフェットの大不況を乗り越える知恵(徳間書店)P.133)

 

  米国、中国で、政治が「権力化」してはいないであろうか。

 「権力」とは、他人を強制し服従させる力。

 これに対して、「権威」という言葉がある。

 「権威」とは、ある分野において優れたものとして信頼されていること。その分野で、知識や技術が抜きんでて優れていると一般に認められていること。または、他の者を服従させる威力。「威力」とは、相手を圧倒する強い力。非常にすばらしい性能・力とコトバンクにある。

 

 政治や行政の「権威」が失墜し、権力化しているだけということなのかもしれない。

 

 元文科大臣の田中真紀子氏は、AREA.Dotのインタービュで、「政治は本来、現実に風穴を開け、夢を実現する素晴らしいものです。ところが今の政治にはそうした覚悟を感じない」「覚悟を持つには国の将来をこうするという展望が必要です」と答えていた。

 

 

 デモの発端となったジョージ・フロイドさんの弟が、事件現場を訪れ、人々に対し平和的なメッセージを発したという。

「皆が怒る気持ちは分かる。でも、私が感じている怒りはそれ以上だ。その私はここで暴れていないし、破壊行為もしていない、自分たちのコミュニティーをめちゃくちゃにもしていない。

それなのにみんなは何をしているんだ?

それでは何もしていないのと同じだ。そんなことをしても、私の兄は帰ってこない」と述べ、各地で発生している暴力的なデモをやめるよう訴えた。そして、

「自分で調べて、自分で学ぶ。

誰がどのような人(政治家)なのか、

他人の意見に頼ってはだめだ。

自分で調べ、誰に投票しているのかを知らないとだめだ」

と続け、より非暴力的な方法を模索するよう呼びかけた。 (出所:AFP BB News)

 

www.afpbb.com

 

 東京では、コロナの感染者がまた増えているようだ。東京都は、「東京アラート」を発し、レインボーブリッジが真っ赤に染まった。まだまだ警戒を緩めることができそうもない。

 

www.newsweekjapan.jp

 

f:id:dsupplying:20200603094305j:plain