Up Cycle Circular’s diary

未来はすべて次なる世代のためにある

父親が残してくれたもの

 

父親の話を書こうと思います。

 

今年の3月下旬に父が老衰で息を引き取りました。  

記憶に残っている父との思い出が少なかったのですが、多くの人たちから父親の生前のことをお聞きし、自分が抱いていた父の印象と大きく異なることに戸惑いを感じたりもしました。

 

私が見てきた家庭内での父に対する印象は、寡黙な人、厳格な人、地域を思う人でした。ところが父が元気であったときに、仲の良かった人たちからお聞きすると、まるで違っていました。

 

よく語り、義理や人情を重んじ、地域に溶け込むことに努力する人だったこと

信心深かったこと

近くの高校生や近隣の人たちに伝統工芸を伝えようとしていたこと

そんなことをはじめて知りました。

 

そんなことを教えてくれた人たちと会話して気づいたこと。

つい言葉を表面的に捉えてしまって、そこから齟齬が生じてしまうこと。

 

義理、人情というと古めかしく、重たい印象を受けましたが、よくよく話を聞いてみると、他者への配慮、やさしさ、そして、つながりを大切にして、父は生きてきたんだなと理解できました。

 

父が元気であったころの話す言葉から、自分で勝手に父の印象を作り上げていたんだと今になってようやく気づきました。

 

父は晩年パーキンソン病を患って、不自由な体であったにもかかわらず、自分が身につけていた工芸の技を使って、正月飾りやしめ縄などを近くの寺院や近隣の人たちに無償で譲っていたそうです。

 

そればかりではなく、自分の技を近隣の高校生や自分がこれぞと思った人たちに伝授しようとしていました。

 

父とは長く離れて暮らしていて、そんな姿を見ることができずにいました。

そんな話を聞いていると、きっと父は二人で酒でも飲みながら、自分の生きざまを語りたかったんだろうなと思い、とても残念です。

 

白洲正子さんが「金平糖の味」の中で、親孝行について、こんな風に書かれています。

~雄弁は銀、沈黙は金、今は忘れられない尊い玉条も、父のことに思いを及ぼす時私に返ってくる。そういう遺産を身につけたら、はじめて恩返しも出来るというものだろう。親孝行は、何も生きているうちだけのことではあるまい。父が死んでから、私はそういうことに気づいた。

 

父が残してくれたものは、家庭菜園というには大きすぎる畑、もったないと言って捨てずにいた数多くの道具たち。そして、今年のお正月に掛けられた最後の言葉と父の人生。

 

『みんな、お前のことを応援しているんだから』

 

親孝行をできずに父が逝ってしまったと思っていましたが、これからが親孝行の始まり。

 

父がやり残したこと、できなかったであろうことを引き継いでいこうと思います。