今朝も寒かった。朝の空気は昨日の雨のせいだろうか、多少しっとり感があったように思う。日中は寒さが緩むという。電力事業者は一息つけるのだろうか。
混沌
米国はまだ混沌としていそうだ。もうしばらくこの状態が続くのだろうか。世界最悪のコロナの感染状況なのだから、まずはその鎮静化に向かうべきはずと思うのだが、なかなかその方向には向かない。公衆衛生の改善よりも、私利私欲が優先される。それを批判しようものなら、相も変わらず魔女狩りだと声高らかに主張することは如何なものであろうか。選挙で選ばれた一国のリーダーとして似つかわしくない発言のような気がする。
ファーストレディのメラニア氏が、「私たちの国は礼節を持った癒やしを必要としています。誤解なきよう。私は連邦議会議事堂で起きた暴力を何としても非難します。暴力は決して容認できません」との声明を出したとAFPが伝える。色々な背景があるようだが、「礼節を持った癒やし」との言葉に魅かれる。少しばかり世の中全体で癒しの時間があればと思う。主義主張に関係なく、吐露された本音なのだろうか。
命の選択
昨日見たテレビのニュースでは、コロナ中等症の患者が急激に悪化していき、亡くなられまでの映像を映し出していた。悪化するコロナに人工呼吸器をつけるか否かの選択を医師が行う。少しばかり胸がつまった。一昨年の父が亡くなったときのことを思い出した。あの時、延命治療をしないことを選択したことが未だに心の片隅でわだかまりとして残っているからかもしれない。
今コロナの現場でこうした「命の選択」という辛いことが頻繁で行われているのだろうか。昨年のNHKのクローズアップ現代+で、その放送があったようだ。番組は見ていない。
「ここまで頑張って生きたのなら、最後の最後は人工呼吸器とかまでは、コロナであろうといいかなと私は思うんですけれども、どうですかね。難しいですね。どっちが正しいとも、どっちが間違っているとも言えないですし、ましてや本人に選択の意思がないというか、意識がなくなっちゃって家族に託されるわけですので。」 (出所:NHK)
さらにNHKは医師の言葉を紹介する。
私たちの病院でもできる限り、最初の入院した時点で、急に悪化したときに人工呼吸器をつけるかどうか、それは確認できる限り確認しようと思っています。それはこれまでの経験で、私たちが思っている以上に急速に肺炎が進んで、やはり家族にそれを伝えて選択してもらう時間がない、そういうことをたびたび経験したからです。
先ほどあった看取りなんですけれども、呼吸器をつけないからといって治療が終わってるわけではなくて、私たちは、その最後のところまでみとるということも医療なんですね。
そこには例えばタイミングを見て、多くの人、周りの人が面会できるようにしてあげたり、そういうことを時間を取ってあげたりするんですね。ただ、新型コロナは感染対策のこともあり、たくさんの人に会わせてあげることもできないんですね。ですから、非常につらい現場があります。 (出所:NHK)
中等症の患者を専門に受け入れる病院では、入院時、患者や家族に対し、万一、危険な状態になった場合、高度な医療を希望するか意思確認を行っているという。希望していれば、症状が悪化したとき、重症患者用の病院へ転院されるが、希望していないと、できる限りの治療を行いますが、その病院で亡くなることもあるという。
父のこと
父は脳梗塞だった。半身不随になり、食事もできず、話すこともできなくなった。鼻から栄養と水分補給し、回復するかを病院で経過観察する。2週間も経過すると、医師と今後の方針を話し合うことになる。医師からは今後の回復が期待できないと言われ、延命治療をするか否かの選択を求められる。延命を希望すれば胃ろう処理をして転院することになる。延命を望まなければ、介護施設または自宅で看取りの時間になる。
知り合いの介護施設に転院することにした。退院するときに、看護師さんから「栄養補給と水分多めにしておきました」と声を掛けられた。「ありがとうございます」。あとはもう父の体力次第であった。
倒れた直後父は言葉にならない声を発していた。必死にコミュニケーションしようとしていたのかもしれない。家族に何か言葉を遺そうとしていたのかもしれない。父は何を言いたかったのだろうか。徐々にそれもなくなっていった。もしかしたら、今の自分を受け入れたということだったのだろうか。その間、父は何か考え、どんな感情を抱いていたのだろうか。諦めだったのだろうか。
介護施設に移り、2週間くらい経ってだっただろうか、父は永眠した。死因は老衰。
今日もどこかでコロナで亡くなる人がいるのだろう。それを思うと切なくなる。父の時支えてくれた医師や看護師、介護士の姿が重なる。父のときより遥かに過酷な現場がそこにあるのだろう。コロナなんてないほうがいい。
父のことの経験がなかったら、もしかしたらどこかの知識人と同じようなことを主張したのかもしれない。命を守る医療現場は何より優先して守られなければならない。
「マスコミをやめる」宣言 静岡新聞
静岡新聞SBSが、「マスコミをやめる」と宣言したという。
新聞は、短時間に大量に印刷できる輪転機の技術が、テレビやラジオは、電波で映像や音声を送り届ける放送技術が可能にしたメディアでした。「同じものを同時にたくさんの人に届けられる」ようになったのです。(中略)
「マス」とはいったい何だったのか? 今も昔も、生活者は一人一人みんな違う。新聞、テレビ、ラジオを成り立たせている技術の性質上、「マス」と捉えざるを得なかっただけで、インターネット登場以前にも実世界に「マス」なんて存在しなかったのではないか。もし、当時今のように一人一人と向き合える技術があったなら、私たちは「マスコミ」になったのだろうか、と。
私たちは何のために存在してきたのでしょうか。
(中略)
2021年、静岡県民一人一人が「よりよく生きる」ために当社ができることは何だろうか。答えは一つではありません。なぜなら、人の数だけ幸せの形があり、それをサポートしようとする静岡新聞SBSを構成するのもまた、個性あふれる社員一人一人だからです。(引用:静岡新聞SBS)
メディアが変わるきっかけになればいいのかもしれないし、漂う閉塞感を打ち破っていって欲しい。ディストピア感満載のニュースではなく、苦境の先にある希望がニュースになればいいのかもしれない。どんな報道するのか期待してみたい。