ワクチン接種が始まったと聞いて、少しばかり安心する。出口の見えない暗がりからようやく抜け出る小さな灯りのような気がした。順番が回って来るまでには長い時間がかかりそうだが、それでもその間に誰かが接種することでリスクが少しずつ減るのであれば、それはそれでいいことなのだろう。
米国では、国防生産法を発動し、コロナワクチンを追加確保したという。
バイデン氏は「生産を支援してより多くの機器を確保できるよう、われわれは国家防衛法を発動した。これによりわれわれは両社の計画を前倒しさせることができた」と話した。 (出所:ブルームバーグ)
こうしたことをしながらも、バイデン大統領は、パンデミック(世界的大流行)がすぐに収束することはないと警告したそうだ。
その上、米国はWHO世界保健機関に2億ドルを拠出するという。AFPによれば、貧困国の新型コロナワクチン確保を目指す国際枠組み「コバックス(Covax)」にも「大規模な資金援助をする」と表明したそうだ。
米国が前政権の路線から決別していく。前政権の4年間とは一体何であったのだろうかと改めて考えてしまう。歴史に「if」はないといわれるが、もしコロナ対策に積極的であったらどうなっていたのだろうかと想像する。
社会の雰囲気は違うものになっていたのだろうし、もしかしたら、もっと早くパンデミックが収束方向に進んだのかもしれない。ここまで酷い被害はなかったのかもしれない。
国内でも感染が収束する前に「空前絶後の経済対策」と言った政治家がいた。米国の前政権の人とはゴルフ仲間と呼び合う仲良しだったとか。何か刺激されるものがあったのだろうか。
ようやく始まったワクチン接種でそんなことを思い出す。
自身でコントロールできないことに腹を立てるべきではないという。
コロナパンデミックについても、そうなのだろうと思おうとするが、感情を揺さぶられることが多かった。深刻に考えまいと思い、冷静さを装ってはいたが、心のどこかでは「安心・安全」が脅かされているのではないかと思い落ち着いていなかったのかもしれない。
欧米と比べた数字の多寡ではなく、自分が所属する地域コミュニティで増えれば、対岸の火事とは思えなかった。
感染対策が個々人の努力次第ではやはり心もとない。率先するリーダーたちがその善き模範を示せば、自ずとそれに倣うようになるかもしれないが、そうはいかないのが常、一人ひとりの良心に頼った対策にはやはり限界がある。
結局、ワクチンであったり、法的な規制なくして対策は成り立たないと思い、それを待っていたのかもしれない。
国内で初めてコロナが確認されてから1年余りが経過した。世界各地でワクチンが開発され、その接種が始まり、ようやくその順番が回ってきた。
しかし、なぜ自国でワクチン開発ができなかったのだろうか。どこか劣化していないだろうかと思ったりする。ノーベル医学賞を受賞する人を多数輩出しているのだから、こうした危機にあってこそ、その力を発揮されるべきと思うがそうはいかない。何故なのだろうか。
『知っていても意外と説明できない「SDGs」の本質 ~SDGsでいうところのサステナブルとは何か』との記事を東洋経済オンラインが出す。
記事執筆はレノボ・ジャパン社長のデビット・ベネット氏。現状世界が抱える問題、環境破壊や経済格差、機会の不均衡などを簡潔に説明し、「SDGsはこうした行き詰まりに対し、本質的な解決を図るための提言です」という。
「経済発展をSustain(維持)する」一方で、その発展したいというエネルギーで「諸問題を解消する」ということです。
ベネット氏の説明が腑に落ちる。「Sustain」には「Maintain」と違って、続けることができなければもうおしまい的なニュアンスがある。
終わらせないために、そのエネルギーを物事の解決に向かわせるということがSDGsの本質であろうか。
言われてみれば、多くの企業の「サステナブル」は、「Sustain」ではなく、「Maintain」しているだけのかもしれない。
ワクチン接種が始まった。少し気が緩んでしまいそうな気もする。この時期にもう一度「サステナブル」の意味を考えてみるのもいいのかもしれない。
「安心・安全」が壊れてしまえば、すべてが無に帰してしまう。