Up Cycle Circular’s diary

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【SDGsと性悪説】道徳なき社会に、ナッジ理論で作るごみ箱

 

 神戸市とP&G プロクター・アンド・ギャンブル・ジャパンが、包括連携協定を締結すると発表した。P&Gによれば、コーポレート・シチズンシップ活動に基づく密接な連携により、より良い社会の実現にむけて活動するという。

www.city.kobe.lg.jp

 その活動のひとつに、兵庫県立大学の学生らを交えて、行動経済学を用いた街の美化や景観の向上がある。

人の心理に働きかけて行動変容を迫る「ナッジ理論」を応用したごみ箱を9月にも市内の各所に設置し、効果を検証する。 (出所:日本経済新聞

 個人的には、公共の場におけるごみ箱は撤去せずに適度にあった方が、ポイ捨て防止に良いだろうし、ごみは資源との啓蒙にも役立てることができるのではと考えてしまう。

 「ナッジ理論」でどんなごみ箱ができあがり、どの程度の効果があるのか気になる。ただ禁止するだけではなく、良心を育むような仕掛けになればいいのではなかろうか。

 

 

 一方、多数者が利用できる共有資源が乱獲されることによって資源の枯渇を招いてしまうという「コモンズの悲劇」、経済学における法則がある。

共有地(コモンズ)である牧草地に複数の農民が牛を放牧する場合を考える。農民は利益の最大化を求めてより多くの牛を放牧する。自身の所有地であれば、牛が牧草を食べ尽くさないように数を調整するが、共有地では、自身が牛を増やさないと他の農民が牛を増やしてしまい、自身の取り分が減ってしまうので、牛を野放図に増やし続ける結果になる。こうして農民が共有地を自由に利用する限り、資源である牧草地は荒れ果て、結果としてすべての農民が被害を受けることになる。

また、牧草地は荒廃するが、全ての農民が同時に滅びるのではなく、最後まで生き延びた者が全ての牧草地を独占する。 (出所:Wikipedia

脳科学者の中野信子氏は、 「個人または特定のある集団が自己の利益を最大化することだけに集中すると、それはより大きな集団においては長期的に見て愚かしい戦略となってしまうのです」と解説する。

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 現代社会では、この法則に従ったことが多く見受けれるような気がする。もしかしたら、コロナ渦における個人の行動もそれで説明できるのかもしれない。

これを回避するには、それぞれが利益を最大化するのでなく、適切な分だけを得て満足することです。こうした考え方は、私たちにも道徳心としては備わっています。

つまり、道徳は単なる昔話や綺麗事や迷信ではなく、サスティナブルを目指すためのうまくできた仕掛けだったと考えられるのです。しかし、近代合理主義によって、こうした考えが迷妄であるとされ、利益を最大化するのが是であると喧伝されてきたのが、ここ二〇〇年の人類の歴史だったといえるでしょう。 (出所::中央公論

chuokoron.jp

 中野氏の主張を聞くと、性悪説なのか、それとも性善説なのかといわれているような気もする。

 性悪説を主張した荀子は、人間の性を「悪」すなわち利己的存在と認め、「偽」すなわち後天的努力によって修正して「善」へと向かうとした。

荀子は人間の「性」(本性)は限度のない欲望だという前提から、各人が社会の秩序なしに無限の欲望を満たそうとすれば、奪い合い・殺し合いが生じて社会は混乱して窮乏する、と考えた。 (出所:Wikipedia

 荀子は、規範(=礼)が社会の安全と経済的繁栄のために必要とするが、一方で身分的・経済的差別を容認したといわれる。それで欲望の衝突を防止して、欲しい物資と嫌がる労役が身分に応じて各人に相応に配分される制度であると正当化したという。

 欲望ばかりで規範もなくなれば、差別が生じるとも解釈できそうだ。

 

 

 一方、孟子性善説を主張し、人の性が「善」であることを説き、仁、義、礼、智の四徳を誰もが持っているとし、人間には誰でも「四端(したん)」の感情が存在するとした。「四端」とは「四つの端緒、きざし」という意味。

「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)
「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)
「辞譲」(譲ってへりくだる心)
「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)

(出所:Wikipedia

 しかし、これを努力して伸ばさない限り人間は禽獣同然の存在になってしまうとも主張する。

 道徳というとどこか胡散臭さもあるが、昨今のSDGsエシカルサステナブルとの言葉に通じているのかもしれない。そのSDGsエシカル消費を子どもたちは学校で学んでいるという。その子どもたちが次の消費を担うようになる。その時、彼らはどんな答えを導き出すのだろうか。大人たちも彼らに負けじと学ばないとならないのだろう。性悪説性善説も学びが必要と説いているのだから。

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  明治期に「利潤と道徳を調和させる」という、経済人が為すべき道を示したのは渋沢栄一。もしこの時代に栄一が生きていたなら、SDGsエシカル消費をどう見るのだろうか。