Up Cycle Circular’s diary

未来はすべて次なる世代のためにある

【サスティナビリティの現在地】啓発の坂の途上なのか、それとも再び幻滅のくぼ地に転落するのか

 

 脱炭素やカーボンニュートラル、ESGに、もちろん「SDGs」、そうした言葉たちが市民権を得つつあるのでしょうか。

 国がカーボンニュートラルの2050年の達成を目標にすると、環境問題は意識高い系と言われていたことが嘘のように静まり、関連情報のニュースが溢れるようになりました。

 ハイプサイクルの「幻滅のくぼ地」を乗り越え、「啓発の坂」を登り始めたというところなのでしょうか。この「啓発の坂」が続くのなら、その利点と適用方法を理解するようになるといわれています。

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(画像:ガートナージャパン

 SDGsが国連で採択されて5年が過ぎました。そろそろ社会にしっかりと根をはり、目標が一つひとつ解決に向かっていると体感できればいいのかもしれません。

 

 「娯楽や食にもカーボンニュートラルの波、成長ビジネスはどこに?」との日経XTECHの記事があります。

 エンジニア向けサイトも、こんな見出しの記事を出すようになっています。啓蒙期かなと感じるばかりです。

 日々世間をにぎわせるカーボンニュートラル(温暖化ガスの排出量実質ゼロ)の話題。日本政府は2050年の実現を宣言しており、自動車関連をはじめ、大手企業からの発信も目立つようになってきた。

今回は、CO2(二酸化炭素)削減に貢献する日々の取り組みを消費者の観点から考察し、その奥に潜む新しいビジネスの種について考える。 (出所:日経XTECH)

xtech.nikkei.com

「サスティナビリティ」の意義を問う訳でもなく、その意義が認知されていようといまいと、「サステナブル生活を支える新ビジネスに注目」、そんな論調で記事は展開されていく.....

 本質から大きく外れることがなければ、それはそれでよいことなのかもしれません。間口が広がれば、それだけ新たな視点があるのかもしれません。

 

 

「ESG投資を殊更に難しく考える必要はないだろう」とニッセイ基礎研究所は言います。さらに「完璧なESGに取組むことは不可能に近い」といい、「ESGは、決して投資家のためだけではなく、企業のためだけでもなく、地球上に生活するすべての人間と生物全般のために、地球環境や社会全般を慮る行動である」といいます。

実は、ESGの大きな要素は、外向けのプレゼンテーションにあり、悪く言えば、“キレイごと”にあることも珍しくない

水素ガスを使った燃料電池車は環境に優しいと言われるが、その水素をどうやって作ったのか? 化石エネルギーを燃焼する火力発電で作った電力で水を電気分解したのでは、本末転倒の誹りを免れない(電気自動車も同様である)。また、現在の主力である化石燃料から水素を取出す方法でも、二酸化炭素が副産物として発生している。 (出所:ニッセイ基礎研究所) 

www.nli-research.co.jp

  ESGという概念が限界を内在していることを理解すれば、真面目にひたすら突き詰めることなく、しかし、真摯な姿勢を持って、少しずつESGに取組むことが出来るのではないかとニッセイ基礎研究所は言います。

 言いたいことは理解できるし、大筋では間違ってはいないのだろうけれども、多少疑問も沸きます。

 地球温暖化や異常気象のこと、防災のこと、プラごみのこと、山と木や自然のこと、安全な食事、そして、家族のことや子供たちの未来。サスティナビリティの起点はそんな身近なことにあるのではないでしょうか。

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 ESG投資、そんなに簡単に綺麗ごとと言っていいのだろうか。仕事としての立場を離れ、一生活者の視点からすれば、そんな悠長なことはいっていられないような気がします。

 限界を作れば、そこで進歩は止まる。進歩が止まれば、失望に変わる。失望は「幻滅のくぼ地」に引き戻してしまいます。投資が限界を作ってはならないような気がします。参加する人が増え、多様な視点が加わることで、期待値に変化を起こしていかなければならないのかもしれません。