私たちは今起きているコロナパンデミックの目撃者になっている。その甚大な被害状況を見ては心が痛む。しかし、この危機的な状況でも、政治的な駆け引きがあることに虚しさを感じたりする。
ロイターが特別レポート「批判覚悟で中国称賛、WHOテドロス氏の苦悩と思惑」を発行した。
独メルケル首相のWHO年次総会でのビデオメッセージをロイターが伝える。
「コロナウイルスに単独で取り組むことのできる国はない」といい、「私たちはパンデミックを克服すると確信しています。国際的に協力すればするほど、これを迅速に達成できます。」とメッセージを発信したようだ。
世界保健機関WHOの年次総会が閉幕した。「米中対立際立つ」とNHKは報じる。
国ごとに別々のコロナ対策が施され、多くの国が危機的状況から抜け出し始める。何が正解かはないのだろう。それぞれの国の事情、国民性なども考慮されるのあろうから。ただ、何がベストプラクティスであったかの検証は必要なのかもしれない。
フランス在住の作家辻仁成さんがある哲学者との会話を日記に綴る。その哲学者が語る「日本人はマスクにSAKOKU(鎖国)の精神を重ねているんだろ」との話にも思わず納得してしまった。
「....何年も前から、ずっと昔から、日本人観光客はパリ市内を観光する時でさえマスクを離さなかった。俺たちは笑いのネタにしていたが、お前らが正しかった。
....日本人はマスクを文化にした。なぜかというと、日本人は集団社会の中にありながら、孤独を守ってきた。マスクがその証拠だ。....ハグもビズも握手さえしない。お辞儀だ。社会的距離をしっかりとって、頭を下げる。ソーシャルディスタンスなんてものを誰からも教わらないで日本人は1000年以上、もっと前から、孤独の美学に基づく対人関係を構築してきた。わび、さび、茶室だ。飛沫感染をしない仕組みが元々あったわけだ、すごいことじゃないか。
心を簡単に許さない礼儀だ。簡単に許さないが、相手にリスペクトを持っている。マスクがその証拠だ。日本人は自分の唾を相手に飛ばさないためにもマスクをするというじゃないか。孤独の極みであり、高いところで完成された文化なんだ。
....日本政府が優秀なんじゃない、日本の歴史と国民が凄いんだよ」
さらにこの哲学者、「世界がグローバル化し過ぎたことがこの時代の不幸を招いた。孤独を愛する者が生き残れる世界がそこにある。俺はこういう言い方しかできないが、日本は外の世界が勝手に押し付けてくるイメージに振り回されることなく、今は、第2鎖国時代に向かうべきだ。それも一つの手だよ。中国やアメリカとは距離をとること。農業を他国に任せちゃだめだ。懸命な経営者はこれから農業を始めるべきだ。飲食業が苦しければ、農業にシフトしたらいい。必ず必要とされる」と辻さんに語たり、どうやら「新しい鎖国」を勧めることが言いたかったことのようである。
すこし極端な意見にも聞こえるが、外国人ならでは視点なのかもしれないと思った。「SAKOKU(鎖国)」「孤独をリスペクトする日本人」という喩えがユニークだ。
日本人の国民性にそんなことがあるのかもしれないし、それが独特な文化の一つなのかもしれない。それで、コロナ感染に役立っているなら、それはそれで愉快でもある。
感染症の基本は、「人にうつさない、感染しない」で、それが徹底できているのなら、この哲学者がいう「孤独の極み」もまんざらではないと思う。自覚しているしてないは別にして、「自律した個人」とも言えるのではないかと思ったりする。
政治や国家が絡むともめ事になる。台湾のWHOへの参加を認めるか否かの話など、そのいい例だ。人類の危機なのだから、ごく普通に考えれば、メルケルさんの言う通り国際連携が当たり前のはずだ。
ポストコロナでは、国家とか政治のしがらみに囚われない世界になって欲しいとつくづくそう思う。
どの国家に属していようが、誰もが地球の住人であることに変わりないはずである。コロナ対策のあとには、気候変動対策やSDGsの完遂が待っている。
フランスのあの哲学者ではないが、孤独だからこそ、できる国際貢献もあるように思えてならない。もっと日本人らしくていいのかもしれない。政治とかではなくして。
関西圏の緊急事態宣言が解除されるのかもしれない。首都圏はどうなるのだろうか。