Up Cycle Circular’s diary

未来はすべて次なる世代のためにある

同じ舟に乗れば世界の対立は収まる

 

 痛ましい事件が続く。香港、米国ミネアポリス、そして、国内。こうしたニュースを耳にすると心が痛む。また、そこから対立が生まれることが気がかりだ。エスカレーションせず、穏便にことが収まって欲しいと願うばかり。

 

 香港の将来が気になる。何度も訪れ、香港人の知人もいるからだろうか。

 今すぐに89年の天安門事件のような事態になることはないとの見方のようだが、悪化するようであれば、何が起きてもおかしくはないという懸念もあるようだ。

  

 BBCによれば、英国ラーブ外相が、中国が香港国家安全法の導入を停止しない場合、英国海外市民旅券(BNO)を保有する香港人に対し、英市民権を獲得する道を開く可能性があると述べたという。ロイターはその対象が290万人と報じる。

 

www.bbc.com

 

英国は、香港の旧宗主国。最初に香港を訪れたときは、まだ英国統治下だった。中国に返還された直後から何度も訪問するようになった。香港の様子も年を追うごとには変わったように思う。返還直後はタクシーに乗っても英語が通じたが、次第に通じなくなった。大陸からの人が増えたとも聞いた。いつしか香港ドルより中国人民元のほうが強くなっていた。

  

 

 

なぜここまでエスカレーションしてしまうのだろうか。国民性とか愛国心が影響しているのであろうか。

 深津貴之さん(㈱noteのCXO)のnote「多様性についてのメモ」が気になった。

多様であるということは「一定数の合わないもの」「一定数の敵対者」すら内包します。

ですので多様な世界は、平和な世界ではありません。小さなイザコザや、メンドウな調整ごとが沢山発生します。

誰もが無条件に幸せな、ユートピアではないのです。そこにはリスクも痛みも悲劇も、依然として存在します。

正直にいえば、「気の合う仲間だけで構成された世界」のほうが、確実に居心地がよいものです。 (出所:深津貴之さんのnote「多様性についてのメモ」)

 

note.com

 

 深津さんは結論的に「ガチの多様性は、ぶっちゃけ「人類にはまだ早すぎる」概念でもありますという。

 個の人間には受け止めきれない。

 とりあえずは、「選択肢がいっぱいあることの価値」と「必ずしも居心地のよいものではない」と「平等と多様はちょっと違う」というあたりを、なんとなく意識しながら… できるだけ多くの人が共存できる世界観を考え、議論していければなぁと思います」と指摘する。 

 理想的な多様性のある世界はそう容易く実現することはできないということであろうか。ある意味で、永遠のテーマなのかもしれない。香港、ミネアポリスのニュースを見ては、そんなことを感じる。

多様性を求めるのであれば、やはり他者への理解が欠かせないと思うが、譲れない何かがあるということなのだろうか。

 

 ある時、台湾企業と協業していた。ODM(Original Design Manufacturing 設計・製造委託)に近い形式で製品を作ってもらっていた。そんな関係であっても、いくつか対立するところがあった。

 うまく進まないプロジェクトでは、「呉越同舟」の話をした。

 敵対する者同士や、仲の悪い者同士が同じ舟(場所)に居合わせることのたとえのこと。そんな者同士でも、同じ困難や利害のために協力することのたとえの四字熟語だ。

 この話をすると、一気に場が和んだ。説明するより、四字熟語を使うことで理解され、プロジェクトが一気に進み始めた。同じ漢字文化を持つことに感謝した。

 対立が協力に変わり、率直に会話できるようになった。

 

 見方を変えるだけで、見える景色も変わる。

 

 それ以来、対立を理解に変えることはできると信じているが、深津さんがいう「気の合う仲間だけで構成された世界」は居心地がいいということも、また真実なのかもしれない。

 

 

 

 作家の辻仁成さんは、暮らし日記「ストレスを絶対に抱えない3つの鉄則」というブログで、フランスの謝罪しない文化を紹介し、日本の文化との違いを指摘する。その上で、他者の人格を否定してはならないという。 

最初の頃、フランス人は図々しい奴らだ、と思った。一言謝ってもいんじゃないの、と思ったが「申し訳ありませんでした」という言葉はよっぽどのことがない限り聞かない。なので、謝られた時は、本当の謝罪であることがわかるのだ。

自分に非がないと思うのに謝るからストレスになるだけのことだ、と気が付いたら、結局、ストレスは減った。

フランスでは、お互い、相手に謝罪を期待しない文化なので、平行線で終わっても人格が否定されることはない。言いたいことを言って納得して、一応終わる。

今、ネットで話題になっている、口汚い人格を否定するような言葉は、フランスであまり聞かない。そういう人格否定に関心がない。他人のことをとやかく言う暇がないのだと思う。 (出所:辻仁成さんのブログ 暮らし日記「ストレスを絶対に抱えない3つの鉄則」)

 

www.designstoriesinc.com

 

 中国人や華僑の人たちも同じかもしれない。あまり謝罪しないと思う。面子を重視する国民性があるからもしれない。

 中国語が堪能な人が、中国語で謝罪は「対不起」、「対」とは正しいとか合っている、正常を意味する言葉で、それを否定することが謝罪とはおかしいと言っていた。

 

 中国系の人たちと仕事をすると、結構激しく大声でやり合うことが多い、感情的になったりすることもあるし、否定的な言葉も多く使われたりする。否定はあくまで話し合っている内容や事象についてのものなので、激しくやり合っても遺恨を残すことはない。どちらかと言えば、理解が深まるという感じがする。それは人格を否定するようなことではなかった。

 長くそんな環境で仕事をしていて、国内がメインの仕事場になったとき、長年身に着けた習慣で苦しい思いをした。

 率直に話しているつもりだったが、KYだの、否定的だの、人格否定だと言われることもあった。

 辻さんが言われるように、ストレスを感じたし、ため込んだ。

 受け止め方で、伝わる内容も変わると理解した。伝え方の工夫も必要と痛感した。

 

 

 

 作家の岸田奈美さんが、「風はいつか雨になるし、親は子どもに傷を託す ー 村上春樹「猫を棄てる」を読んで」というnoteを投稿した。 親子関係を村上春樹さんの著作を引用しながら書いたものだ。

 

「親が子どもの心に、傷をつける」

「人間にとって傷をつけることは、自然な行為なのかもしれない」と岸田さんはいう。

親の期待は、子どもに重くのしかかっていく。
期待に応えられず、親が落胆する姿を見て、子どもは後ろめたさを感じる。やがて両者の間には、深い深い溝ができる。

「愛しているから期待するんだよ」と、言われることもある。
私は、そうは思わない。
期待は一方的な願望であり、欲望だ。
愛はなにも求めない、受容だ。 

(出所:岸田奈美さんのnote「風はいつか雨になるし、親は子どもに傷を託す ー 村上春樹「猫を棄てる」を読んで」)

 

note.kishidanami.com

 

「考え方や、世界の見方は違っても、僕らのあいだを繋ぐ縁のようなものが、ひとつの力を持って僕の中で作用してきたことは間違いのないところだった。(単行本 猫を棄てる p.88)」と村上春樹さんの言葉を引用し、

「受け取り方は違っても、父と私が二人で経験したことは、間違いのない事実だ」と岸田さんはいう。

 

 事実、現実はひとつであっても、見え方、受け取り方で、そこからはいくつもの真実が個人の中に芽生えるということであろうか。

 得てして、そんなことで対立が生まれ、心に傷、大脳の皺、記憶が形成されていく。そして、その記憶は変化を続け、潜在意識に定着し、自我を形成していく。

 人生のゴールというものがあるとすれば、そうした自分を理解し、他者を理解し、幸福を感じ理解するということなのかもしれない。

 

 

 「自分にとっての理不尽は、相手にとっての合理である」という言葉がある。そうして見えれば、今ある香港やミネアポリスでの対立は説明できるが、それでは何の解決にはならない。ありのままを相手を受容できなければ、対立を収めることはできない。

 

 他者をコントロールすることなんてできない、自分をコントロールすることすら困難なのだから。 

 兎に角、過激にならないことを願うばかりである。 

 

 

 「関連文書」

www.reuters.com

www.bbc.com

jp.reuters.com

 

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