五輪組織委員会の騒動が気になっていた。政治的な興味はさほどない。関心事はダイバーシティ(多様性)なのかもしれない。会社勤めしていた時、ダイバーシティ(当時はこの言葉を使っていなかったが)で躓いた経験があるからなのだろう。
『森氏辞任に考える 日本社会に残る無意味な風習』という日本経済新聞の記事が気になった。
「東京五輪がそんな「フラットな社会」、つまりダイバーシティー(多様性)など真の社会変革のきっかけになったとしたら、それこそが一番のレガシー(遺産)といえるのではないでしょうか」
と、ドーム社長の安田秀一氏の言葉でこの記事は結ばれる。この言葉に共感したのかもしれない。
五輪やスポーツを超え、これからの日本が再び輝くには、どんなリーダーを選び、どんな社会を築いていくべきなのか。
男だから、女だから、年下のくせに……なんていう無意味な風習や価値観が廃れていき、自由闊達な議論が盛り上がる風通しのよい社会へ。
前回のコラムでも記したスポーツがけん引する「フラットな社会」の実現が、思ったより早く訪れそうで、なんとなくワクワクしてしまいます。 (出所:日本経済新聞)
安田氏は、五輪をテーマに書き、様々な問題を提起する。自分の経験においても、その一つ一つに思い当たる節がある、同じようなことがあったと感じたのだろう。
記憶
主力であったマレーシアの工場の生産が、ある部品の供給問題でズタズタに寸断され、その解決のために海外駐在を命じられたのはもう20年の前のこと。
問題の渦中に放り込まれたわけだから、現地スタッフたちから毎日責め立てられたものだった。赴任直後は、現地にこれといった人間関係もなく、途方に暮れ、対応に苦慮したものだが、逆に問題があったからこそ、人が集まり、そこから人間関係が生まれ、徐々に問題が解決に向かい始めた。3~4か月もすると大問題も鎮静化、問題を再発させないような体制作りが新たなミッションになった。
シンガポールに異動し、小さいながら組織を立ち上げ、以降会社の組織のひとつとして機能するようにまでなった。活動範囲も東南アジアに限らず、中国まで広がり、香港ブランチや中国拠点との協力体制も出来上がった。
当時はあまり意識はしていなかったが多様性あるチームになっていた。男女半々、国籍を問わずであった。
ある時、「日本人ー日本人」「ローカルーローカル」となるようなことは止めてもらいたい、ボスはもっとボスらしくとも言われた。その通りだと思った。その意見を受け入れたら、雰囲気がよくなり、スタッフが活き活きと動き出した。そんなこともあった。
しかし、時が移ろい会社のトップが替わり、日本偏重の組織への移行を求められ、歯車が少しずつ狂いだし、経営者と対立するようになった。海外チームを活かす方策を探すも、受け入れられずに多様性あるチームが消失した。もっと違うやり方があったのではないかと後悔ばかりであった。海外チームの雇用を守れず悔恨の念が残った。
海外に駐在しているときのトップは海外推進派だったのだろう。国内を開発拠点に位置付け、生産オペレーションは海外に託すと明確だった。オペレーションに関するカンファレンスも海外で開催され、トップ自ら参加していた。そのトップが来れば、現地スタッフとも談笑し、フラットな関係で打ち解けている雰囲気もあった。
替わったトップは手の空いた国内拠点の人材活用を考え、海外を切り捨てようとした。融和策を模索したが、それは失敗に終わった。
森さんがそのトップに見えたのかもしれない。
失ったポジションを回復できたのは取引先の台湾チームとのコラボがあったからだった。そのチームは女性が率いていた。対立することの方が多かったが、ホワイトボードに「呉越同舟」と書き、対立することがあっても同じ舟に乗れば、協力できものと話したら理解を得られた。
プロジェクトの雰囲気ががらりと変わった。そのときは漢字文化に感謝したものだった。以降彼女のチームとは良好な関係を続けることになった。
安田氏はこう指摘する。
実際の執行機関である組織委のトップに据えたのは、昭和の臭いがプンプンする、旧来の利益誘導型の政治家でした。人脈やコネ、貸し借りなどを使った根回しによって物事を関係者だけで決定し、利益は限られた狭いサークルに分配していく。
村社会感が全開の過去のやり方をなぞっただけに感じました。
そもそも、どのようにこの人事が決定したのか、その経緯も密室そのものです。かくして、五輪は「復興五輪」などとは名ばかりの利害関係者だけの関心事となり、大会が終われば赤字を垂れ流すだけの無計画な施設が次々造られ、開催に関わる経費は莫大な金額に膨れ上がりました。 (出所:日本経済新聞)
自分が所属していた大企業の一事業が駄目になり終わるときと、同じだなと感じたのかもしれない。
これを契機にして、「多様性」、「ダイバーシティ」がもっと知れ渡たり、「フラットな社会」に近づいていけばと願うばかりである。