「生物多様性の経済学」と題された報告書が今年注目されたという。
神奈川新聞によれば、報告書はこれまでの経済学が、「自然の恵み」の価値を無視してきたことを指摘、「持続可能な経済成長」にはGDP(国内総生産)によらない尺度が必要と記されているという。
森林やサンゴ礁、湿地などを「自然資本」と捉えて、その価値を評価し、企業や国の会計に取り込むことで、自然を破壊しながら「成長」してきたこれまでの経済を見直そうと呼びかける(参考:神奈川新聞)
TNFD 自然関連財務情報開示タスクフォースが今年10月に初の本会議を開き、そして来年2022年には企業に求める生物多様性に関連する情報開示の枠組み作りが本格化するという。
脱成長を目指すべきなのだろうか
「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬することを目的とす」と、あの西郷隆盛はいった。人も自然の一部であれば、その摂理に従うのは当然のことなのだろう。自然の資本から過剰に搾取すれば、バランスが崩れ、どこかに歪みが生じるのも、自然においてはごく普通なことなのだろう。自然を適度に利用するということが求められている。
経済活動においては、「農民は職人にかなわない。職人は商人にかなわない。刺繍された布を市場の門で売るのが最上なのだ」と、「史記」貨殖列伝にある。こんな古語から今日の経済構造が生まれたのかもしれない。一方で、「農業をないがしろにするのは、飢饉のもと」ともいう。バランスが崩れた経済構造では食糧問題はいつになってもなくならない。この言葉のあらわれなのだろう。
元来、経済活動も社会課題を解決することで成立してきたのではなかろうか。しかし、経済活動は常に新たな社会課題を生み出してきた。気候変動や生物多様性の問題はその最たる例なのだろう。
「天地や神霊の道とは、みな満ち足りることを憎む。謙虚で空っぽであるなら、害から免れることができる」と古語があるという。遠い昔からこうした戒めがあるというのに、過剰に満足を求め続きのが現代なのだろう。そうであるなら「脱成長」を目指そうとすることにも、「理」はありそうだ。ただそこにも道理が求められてはいないだろうか。道理がなければ、また同じように新たな社会課題を生んでしまいそうだ。
価値観を変えるということは
来年2022年は、「かけがえのない地球」をテーマにし、初めて環境問題を討議した「人間環境会議」から50年を迎えるという。そして、2月末からアフリカ ナイロビで「国連環境総会」が開催されるそうだ。この会議では、海洋プラスチック汚染に関する新たな国際条約の交渉開始に合意することを目指しているという。
遅きに失しているとの感は否めないが、それでも前に進めなければ、この問題のいつまでも解決されることはないのだろう。
古語に「天の道は、春が先に、秋が後に来る。そして一年を形つくる。政治においては、法令を先に、刑罰を後にする。そして統治を形つくる」とある。国際条約もこうした古語に従って作られるといいのだろう。
価値観の転換ともよく聞くようになった。そうなのかもしれない。元来、みなが正しく自然の法則を理解していれば、厳しいルールなど不要になるのだろう。まずは規範が求められていそうだ。価値観の転換とは、道理を正しく理解するということなのかもしれない。幸いSDGsがあるではないか。これは普遍的な価値を示していないのだろうか。