Up Cycle Circular’s diary

未来はすべて次なる世代のためにある

便利さを求めることはいつまでも続くことなのだろうか

 

 なにごとにおいても「ロスを減らす」ということも無意識に心がけていたのだと、最近つくづくそう感じるようになった。サスティナビリティに関心をもったからということではなく、どちらかと言えば、関心をもったことで、自分の生活習慣を意識するようになったのかもしれない。そうはいえども、ものすごくストイックなまでに何かを追求しているようなことはない。「ごみを減らしたい」とか、「エネルギー消費のムダを減らす」とか、そんなところだろうか。小さな積み重ねが大切なことではないかと考えるくらいであろうか。

 地産地消にこだわりはあるものの、そうはいってもすべてがそうなることもなく、もう少し賢い消費行動にすべきかと思うこともあるが、多少おっくうだなと思うところもあって、進まないところもあるものだ。調べごとも絶やさないのも、必要な場面になって最善の選択ができればと思って、続けているというところだろうか。

 

 

 脱炭素に、SDGs、そうしたワードとは裏腹に、実生活とその結びつきは少し希薄かなと感じるときもある。今日もこれをした。明日はこれをするといって、情報をシェアすれば、心持ちも変わるのかもしれないが、どうもそういう気分になれない。それでも社会が脱炭素やSDGsに近づいていけば、飽きもせずに書き物は続ける。

脱炭素社会で暮らしがどう変わるのか

 こうしたことを具体的に検討する専門家会合を環境省が新たに設置するという。自治体や地域の企業、金融が協力して脱炭素の動きを加速させる方策を練るそうだ。

「脱炭素社会の暮らし」議論 環境省が専門家会合: 日本経済新聞

 2月に初会合を開き、4月に中間整理をまとめ、政府のクリーンエネルギー戦略に盛り込むという。

 少しばかり興味がある。どんな内容になるのだろうか。新型コロナに振り回される生活になっているかもしれない。

 ソーシャルディスタンスが気になり、3密を避けることが無意識とまではいわないが、それによって行動や思考が支配されているところもあるからなのだろうか。もうそろそろ、そうした煩わしさから解放されたいという願いもあるのだろう。もう終わるのだろうと思って、もう少しの我慢と繰り返してもう2022年である。時間を多少無駄にしているように感じているのかもしれない。

 

 

 SDGsにしろ脱炭素にしろ、これだけ言葉が氾濫し、その方向に国も企業も進んでいるのなら、マイルストーンの2030年までには目標に到達するのではないかと期待したいが、まだそう確信が持てていない。次から次へと、新たなワードが飛び出しては、それが注目されたりするからだろうか。 そうなることは仕方はないが、2030年に温暖化の抑制のめどはどうなるのだろうかと心配になる。

2030年、どんな未来を描きますか: 日本経済新聞

 メタバースにデジタル通貨、便利さがまた向上するのかもしれない。コロナ渦によって、こうした動きに拍車がかかったのだろうか。ただまたデータ流通量は増え、エネルギー消費も増大していく。増える分をどこかで減らさなくていいのだろうか。

 日本経済新聞は「捨てない経済」がやってくるといい、「問題を引き起こしたときと同じような意識では、問題解決はできない」と、アルバート・アインシュタイン(米物理学者)の言葉を紹介する。

 サーキュラーエコノミー、循環型経済への移行ばかりでなく、すべてのことにいえることなのだろう。