目標を一つにできるチームは強い、そう感じさせてくれるワールドカップ スペイン戦でした。ずば抜けたスター選手がいなくても、献身的な姿勢やチームプレイに徹することができれば、難敵さえも打ち砕くことができるということでしょうか。そのひたむきさがひしひしと伝わると、やはり人は感動してしまうものなのでしょう。
こうしたスポーツがビジネスとして成立しているのですから、それはそれでまた面白いものです。
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「イーロン・マスクを尊敬できない」と、『人新世の「資本論」』の著者の斎藤幸平氏がいいます。
電気自動車は環境に優しいが、その製造に必要な銅、リチウムやコバルトはグローバル・サウスで掘削され、そこで人権格差や環境破壊を生み出しているという事実があることをその理由のひとつにあげています。
斎藤幸平「私がイーロン・マスクを尊敬できない理由」:日経ビジネス電子版
電気自動車で金もうけして承認欲求を満たし、最終的には宇宙に行きたいというほうが勝っているのではないか。地球がこんなに大変な時期に、宇宙に行っている場合ではない。宇宙に行く資金があったら、まずは地球の健康のために使ってほしいですね。(出所:日経ビジネス)
「彼のような生き方がカッコいいという社会の価値観が大きく変わらないと地球は滅ぶし、電気自動車に乗っていれば環境意識が高いという錯覚、早く気づくべきです」と主張しています。
言わんとすることは理解はできますが、次の時代に進む中にあっては、多様な人材を存在しているほうがよいのではないかと感じます。まずは、地球温暖化を食い止めて、健全な地球を次世代に残すということが人類共通の目標になればいいのではないでしょうか。
イーロン・マスク氏については、ここ最近にあっては、ツイッターに関することの方に興味があります。
彼の主張する「言論の自由」がどうアップデートされ、SNSをどんな形に変えていくのか、興味津々です。また、そのために実施中の改革で、働き方にも変化が起こり、それが他へ波及していくのか注視したいところです。
自由が行き過ぎれば、誹謗中傷が蔓延するような場と化し、一方で規制を強化すれば、自由は次第に失われていきます。その中間がよいのでしょうが、それを維持するためには、みなが守られなければならない規範みたいなものがなければ、健全ではなく、自由を謳歌することもできません。常により善くしていこうとの心構えと責任、目標がなければ、規制ばかりの世になってしまいます。
過去を振り返り、肥大化した経済社会を思えば、脱資本主義を斎藤幸平さんが説くのもわかります。行き過ぎた力を中和させるには、もう一方への引力が強くしなければなりません。そういう意味からしても多様な意見は必要なのでしょう。
一方で、ガーナに捨てられた電子ゴミからアート作品を作り、その売り上げの大半をスラム街支援に回す美術家の長坂真護さんは、「資本主義社会から今すぐには抜け出せない。だからこそ、今は文化、経済、環境のバランスを取りながら回していくことが必要」と、著作『サステナブル・キャピタリズム』で問いかけているといいます。
「サステナブル・キャピタリズム」って、最終OSじゃないんですよ。斎藤さんが『人新世の「資本論」』で主張しているのは最終OSかWeb3.0くらいのことだと思う。僕が考えているのはいわばアップデート版。今の資本主義は1.0か2.0なのか知らないですけど、僕の考えは、3.0に行くための2.5ぐらいの領域。いきなり3.0をやれと言われてもなかなかできないです。(出所日経ビジネス)
自然は飛躍しないといいます。すべてに連続性があって、あるとき、いきなり理想郷が誕生することはないのでしょう。そのためにはプロセスが必要なわけですし、長坂氏の主張はよく理解できます。
パブリックサービスは全ての人の「幸せ」を願う公共の奉仕者です。安全や健康の基盤があり、その上でやりがいや生きがい、多様なつながり、個別の「幸せ」も担うべきだと思います。(出所:日経クロステック)
そう主張するのは、幸福学を専門とする慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授でウェルビーイングリサーチセンター長を兼任する前野隆司氏。
「公共」、私や個に対置される概念で、英語で「パブリック (public)」といい、社会全体がそれにかかわることを意味します。
富士通と幸福学者による「豊かさ」談義 - 日経クロステック Special
「豊かさにたどり着くための弊害をどうすれば取り除けるのか」との問題認識を、記事で前野氏と対談する富士通は明らかにし、「今後は供給者目線ではなく、国民目線・生活者目線でビジネスをしていく必要があります」といいます。
これがすべてのような気もします。これまでは「私」が優先され過ぎてきたのではないでしょうか。
地球の住人であり一生活者である人が、いつの間にか企業人となって、企業の目的のひとつである永続的な利益の追求が人生の大部分になってしまっていないでしょうか。
人は社会に生きる生活者であって、その糧を企業から得ているにすぎないはずです。そして、その糧はまた生活者によってもたらされる。よって、誰もが社会に奉仕をしなければ糧を得ることはできないのでしょう。
「パブリック」と「私」の関係が資本主義の進化のプロセスが見直されていくべきのように感じます。